ああ、死の島テニアン
この本は、父の発刊した「ああ死の島テニアン」をインターネット用に再編集したものです。終戦70周年を記念して、画像入りで再編集しました。
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父は平成23年6月18日他界いたしました。生前のご厚誼に感謝申し上げます。
終戦60年を記念して再発行いたしました冊子の残部がございますので、御希望の方は、お問い合わせにて御連絡ください。送料着払いでよろしければ、無償配布しています。


(玉砕地の近く カロリナス岬、バンザイ岬の近くに完成した56警備隊の慰霊碑)
発刊のことば

「テニアン」この言葉は私にとって格別の意味を持っています。この言葉を聞く度に私の心は疼き、胸がギリギリと締め付けられるのです。テニアンは玉砕の島なのです。そして私はテニアンの生き残り、いや死に損ないなのです。戦後数十年というもの、私はこの「テニアン」という言葉にさいなまれ、悪夢にうなされる夜が続きました。今でも目を閉じれば地獄のようなあの戦場が、亡き戦友のあの顔が浮かんでくるのです。生還してからの私の人生の半分はテニアンに占められていました。テニアンは常に私と共にありました。
私のテニアンに対する思いは家族にさえ理解出来るものではなく、生き残った数少ない仲間と密かに涙して語り合うのが常でした。そんな私がこの拙い記録を残そうと思い立ったのは偏に戦友の慰霊の為であります。もとより、この記録は私にとって苦痛そのものであります。書くことさえ五臓をかきむしられる思いがします。しかし、紙切れ一枚で引き出され、親兄弟の見知らぬ遥かな戦場で果て、紙切れ一枚で帰郷を余儀なくされた戦友達の願いや思い、そして彼等の死に様を思うと、知り得る限りを伝えることが私に残された務めであるのかも知れません。
戦後五十年を迎えようとしている今、若々しかった皇軍の兵士達も晩年を迎えた今、あの戦争の記憶も共に消えゆこうとしています。かつての玉砕の島々には豪奢なホテルが立ち並び、目映い白砂には若者達の矯声が満ちています。知っているのでしょうか、彼らの足元には彼らの父が、叔父が、あるいは祖父が埋もれていることを。知って頂きたいのです。是非知って頂きたいのです。あなた達のために戦い、死んで行った人達のことを。
私の余命も残り少なくなった今、この身に刻まれた戦争の記憶を思い出し、当時の玉砕戦の様子、テニアン島での兵士の死に様を御遺族の皆様にお伝えするとともに、後世の人、特に一人でも多くの若い人達に読んで頂き、平和への糧にして頂きたいという熱い想いが私にペンを執らせました。
玉砕の島、テニアンで僅かに生き残った戦友と御遺族の方々が誰かしら毎年テニアンに慰霊に行っております。去年も数十名が、五十回忌にあたる今年も全国から八十八名の方々が僧侶と一緒に供養に行って参りました。慰霊、それは戦友であった我々生存者の勤めと思っております。これからも毎年、体の動く限り、我々は慰霊に参ります。いや、例え死の床に臥したとしても心は遥か戦友の眠る彼の島に赴く事でしょう。生ある限り。
去年、念願であった慰霊碑をテニアンに建てることが出来ました。この慰霊碑はテニアン市長、ジェィムス=メンディオラ氏とテニアン在住の平野欣也氏のお力添え及び大勢の日本の慰霊団の方々のご助成とご芳志を頂き、また、現地のマニエル様、島袋三郎様、笠利様各氏のお手伝いを受け、内地の御影石にて建てることが出来ました。
八月二日の玉砕の命日に、九州大分県中津市よりおいでいただきました大家司令官のお嬢さんである衣子様の除幕に続き、御僧侶による読経、御婦人達の御詠歌、戦死者を弔う「平和観音讃仰和讃」の参加者全員にて詠唱、開眼供養と四十九回忌の法要を無事に執り行うことができました。永久に西の方、日本の方向を向いて立ち続けるでしょう。テニアンの島の方々の暖かい見守りの中で。
忘れないで欲しいのです、我々が語れなくなっても。あの島で祖国に殉じた多くの若者がいたことを。その叫びを、その悲しみを。
死の島テニアン、玉砕の島は波涛の彼方なり、なれど汝は我が裡にあり。
拙い私の記録を一人でも多くの方々に読んで頂けますよう祈りを込めて。