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第三部 各隊編

西砲台・及川砲台の最期

及川砲台と隊員は増員隊として昭和十九年四月一日の予定が二日遅れ、三日になって横須賀港を出航した。

三十隻という大船団の中に及川隊全員の乗船があった。途中米潜水艦の魚雷攻撃により「美作丸」他三隻が甚大な被害を受けたが及川隊の乗船は魚雷をかわして危うくサイパンに入港することが出来た。サイパンより直ちにテニアンに上陸、警備隊に編入され、西砲台新湊に砲座の基礎工事を急いだ。毎日珊瑚のリーフにハッパをかけ、三門の基礎が完成すると砲鞍を取り付け、砲身を載せ、やっと米艦船の来襲に備えることが出来た。及川砲台は平地に構築したため、頭上に何の遮蔽物もなく空からの攻撃には無防備に近かった。

隊長の及川中尉は髭の濃い中年に近い格好の将校で、隊長付きの清水一水に顔にカミソリをあてて貰ったり、付近の農家のニワトリを料理して食べるなどしていた。そんなのどかな情景も長くは続かなかった。

昭和十九年七月二十日過ぎ、テニアンは米軍の猛攻に晒される。

海からは米艦隊からの猛烈な艦砲射撃、空からは艦載機の雨あられの爆撃、陸からもサイパン南端アギガンよりの百数十門の火砲の砲撃、砂糖黍畑もジャングルも焼かれ、及川砲台も陸軍の麻生隊のトーチカも丸裸にされ、この一帯のウネハーブ、ウネチューロ及び新添の海岸砲は全滅に近い打撃を受け、及川隊々員は次々と戦死し、特に及川隊の若い志願兵の土井兵長は米軍機よりの直撃弾を受け、下半身の中身が全部飛び出すというような壮烈な戦死を遂げた。

及川砲台がこのような悲惨な最期を迎えたのは、緒戦の米艦隊との砲撃戦に於いて、この砲台の全砲が命中弾を米艦船に打ち込んだ為、米軍の攻撃を集中して受けてしまった為である。及川砲台の一門などはあまりにも激しく砲撃したため、砲鞍が浮き上がるほどであった。

及川砲台の隊長付きであった清水一水はこの模様をカロリナスの司令部に報告に行くよう伝令を命ぜられた。夜のみの行動であった。米軍の打ち上げる照明弾の明かりをリーフの山かげに避け、二晩あまりかけて無事に司令部に辿り着き、報告を終えて帰隊しようとすると、及川隊の方角が真昼のような明るさ。米軍がウネハーブの砂浜、陸軍の麻生隊の正面より上陸したらしい。麻生隊は前日の艦砲射撃で既に壊滅しており、生存者は一兵たりとも無かったという。

カロリナス南端から及川砲台までは徒歩で三時間も有れば到着する筈が、米上陸軍の援護射撃の猛烈さと五キロのサイパン水道を飛び越え米上陸軍の前方、ラソ山方面へのサイパンよりの砲撃のすさまじさと、間欠的に打ち上げる照明弾の明るさに清水一水はカーヒー方面へ進むも出来ず退くもならず、カロリナス下の二本椰子柴田砲台近くの崖下に身を隠して様子をうかがっていると付近に人の気配がする。近付くと海軍の軍医で中尉か大尉らしい。ソンソンの裏手の野戦病院よりカロリナスへ後退の途中の様子。よく見るとどうも見たことのある顔だ。その筈で及川隊がテニアンに上陸して間もなく、沸かしたものなら良かろうと塩辛いテニアンの水を多量に飲んでひどい腸炎をおこし、南洋興発の病院に入院した折り診察を受けた軍医殿なのだ。偶然とは云えよく出会えたものだ。

しかしその軍医は手に拳銃を持って、「俺はこの場所で自決する」と云って柴田砲台裏手の崖の割れ目に入り、「お前は近くへ寄るな」と言う。彼が遠ざかるや引き金を引いた。自決したこの軍医は埼玉県の出身で彼の後継者が志木市に大きな病院を開業しておられるそうです。

目の前で軍医に自決されてしまった清水一水は途方に呉れる思いがした。自分はこれからどうしたら良いのだろう。命令を下すべき士官も下士官も居ない。途方に呉れたままカロリナス台上を弾幕を避けながら歩いた。七月三十一日の警備隊司令部の総突撃も彼には知る由もなかった。

数日後、彼は我々と出会うことになる。この時から最後の司令部となったカロリナスの洞窟での三名、相良、高野、清水、そして永田様の遺骨、の敗残兵生活が始まる。清水一水は負傷もしており、栄養失調で足の裏の土踏まずが丸く腫れ上がり、歩くのもやっとの状態で、二人で彼をかばいながら終戦近くまで頑張った。

明日こそは手持ちの手榴弾で自決しようと皆で心を決めるも、いや、日本の連合艦隊が必ずサイパン、テニアンを奪回しに来るものと自決を思いとどまり、あと一日生きよう、明日こそは友軍が来る、もう一日生き延びようとの毎日。もうテニアンには将校は一人も生き残っては居ないだろう。もし一人でも残っていれば少しは情報が入るだろうに。

テニアン島での戦死者のほとんどは、隣のサイパン島の姿の見えぬ数百門の火砲に粉砕されたか、あるいは自決した者である。我々も同じ運命を辿るのか。

海軍第八十二防空隊・田中高角砲隊

テニアン守備隊・田中隊の迎撃体制は昭和十九年二月の初空襲には間に合わず、六月十一日の大空襲には高角砲と高射機関銃の設置はなんとか間に合わせる事が出来た。

空を埋め尽くす米軍機に高角砲と高射機関銃は突っ込んで来るグラマンとそれぞれ一騎打ちを演じていた。グラマンの機銃に射手の右腕の関節が打ち砕かれ、皮一枚を残してダラリと垂れ下がり、「誰か腕を切り落としてくれ、重くて仕様がない、」等と叫ぶ射手も大勢いた。次々と突っ込んで来るグラマンに大勢の射手が負傷し、重傷を負った者は次の兵と交代して怯むことなく敵戦闘機に挑んでいった。

田中高角砲隊は第二飛行場付近の守りに就いていた為に米軍機の格好の目標にされ、空からの攻撃とサイパンからの長距離砲の攻撃に晒され、隊員の七、八割は戦死、砲台は壊滅してしまった。防空用の探照灯はシートを被ったまま使わずじまいだったらしい。この戦闘では十四、五機のグラマンを撃墜したと言うことである。

この戦闘の模様は飛行場の地上要員の下士官が見ていて、内地に帰ってから私に話してくれたものである。

その後の田中隊の残存兵は米軍の上陸と共に散り散りになって戦い、内地に帰った者は一人もいない。

長峰松二二等兵曹を想う(田中高角砲隊)

栃木県鹿沼市出身の長峰松二・二等兵曹は昭和十七年夏、横須賀第二武山海兵団に入団、教育を終えて横須賀海兵団に配属された。暫くして輸送船の乗員を命ぜられ、航空隊要員や地上部隊をサイパン、テニアンに送り届けて帰団した。

当時、彼の夫人は妊娠三カ月であったが、彼はそれをも知らず軍務に精励し、水兵長になって横須賀の追浜に下宿を許可された。夫人のハマさんも二回ほど下宿先に面会に行き、様々相談などされたされたという。

入団時、彼は独身であったが、サイパンに上陸した折、彼の上官との話の中に彼とハマさんとの恋愛の話が出、その上官の勧めで入籍することになったという。

昭和十九年三月末、夫人はよちよち歩きの洋子ちゃんを連れて来たが、長峰水長は可愛い盛りの我が娘を目に入れても痛くないほどの可愛がり様だったという。

これが長峰水長との永遠の離別であった。夫は死地に赴き、妻子は留守宅に。

長峰水長は同年四月一日、出発予定が二日遅れて三日に正式出航となり、途中米潜水艦の魚雷攻撃を受け、同船団の美作丸ほか二隻は沈没し、海防艦に救助された乗員のうち負傷兵はグァムの海軍病院へ収容された。

テニアンに着くと田中高角砲隊(十二糎高角砲)に編入され、米軍が来襲するや米戦闘機と交戦、一機を撃墜した。後から到着した田中隊の増員隊と共に壮烈な戦いを繰り広げ、隊長は戦死、生き残った者も佐藤分隊士の指揮のもと全員戦死を遂げたものと思われる。

長峰水長は田中隊にあって中堅のバリバリの現役であり、働き盛りのあたら若い身をテニアンの野に晒したのである。

夫に戦死されたハマさんは家業の生花店を切り盛りしながら娘の洋子ちゃんを立派に育て上げ、現在は娘さん御夫婦とお孫さん達に囲まれ、二階のお仏壇に亡夫を偲んでおられます。

ハマさんは慰霊団にも参加され、「平和観音讃仰和讃」を唱和されました。

念仏の悲しい響きはテニアンの空に広がり、地にも染み込み、目の前に亡き人々の面影を浮かび上がらせたのでした。

上野孝一上曹を偲ぶ(田中高角砲隊)

上野孝一上曹は栃木県下都賀郡桑村に上野一郎氏の長男として生まれ、現役徴兵として横須賀海兵団に入団し、海兵団の教育を終えた後、海軍砲術学校に進んだほどの優秀な海軍下士官であった。彼もまたテニアンに配属され、海軍第五十六警備隊・田中高角砲隊に所属した。田中隊では高角砲の砲長か射手を努めていたらしい。

テニアンに米軍が迫るや、空を覆うグラマン戦闘機と交戦、一機を撃墜し、尚も砲撃を続けたが、雲霞の如き敵戦闘機の陸続たる爆撃の前に、むき出しの高角砲陣地は無惨な姿となって田中隊の勇士達の多くは此処に最期を遂げた。

残存の田中隊兵士も七月三十一日の司令部の総突撃か八月二日迄の第一航空艦隊の最後の突撃に於いて戦死したものと思われる。

上野上曹の弟である上野清氏は兄の遺志を継いで実家を守り、小山市の市議会議員としても活躍されております。清氏は慰霊団にも幾度も参加され、供養の誠を尽くしておられます。現在は家業を御子息に託され、親子で各方面に活躍されております。

若田部重太郎上水のこと(田中高角砲隊)

田中隊所属の若田部重太郎上水は栃木県佐野市の出身である。三十七才という年齢は兵隊としては既に老兵と言うにふさわしく、勿論妻もあれば十才を頭として一男三女を儲けていた。しかし、戦況の急迫はそんな彼をも戦場に駆り立ててゆく。

出征の時、「二年もすれば帰ってくるから後を頼む」と妻に言い残し、九里浜で訓練を受けることになった。九里浜での海軍生活は彼にとって相当に辛く、駆け足の行軍など若い兵隊との共同生活は大変であったらしい。間もなく南方方面行きの要員が不足したため、彼も南の島テニアンに派遣されることになった。

テニアンでは第五十六警備隊・田中高角砲隊に配属され、群がる米軍機を相手に奮闘するのだが、他の隊員同様、彼もまた二度と内地の土を踏むことはなかった。

テニアンは玉砕の島である。生存者も数えるほどで、戦死者の多くは米軍がブルドーザーで大穴を掘ってまとめて埋葬してしまっているため、遺体の確認は極めて困難である。しかし若田部上水は例外であった。

昭和二十七年、現東京商船大の学生が練習船「日本丸」にて第一回のマリアナ群島の遺骨収拾を行った際、テニアンに上陸した元南洋興発社員の藤井氏や学生によって収拾された中に若田部上水の遺骨が確認されたのである。遺骨の履いていた軍靴に若田部の名が刻まれており、厚生省の調べでテニアンの海軍部隊に同性の者は見当たらないということであった。その名前は九里浜にいた時に盗難防止のため、若田部上水が刻んだものらしい。

彼の遺骨は収容され、彼の軍靴は日本に持ち帰られ遺族の元に返された。御遺族はその軍靴を今でも大切に仏壇におまつりしておられる由。因みにこの時名前の判明した遺骨は七体あったそうである。

若田部上水の留守を預かったタケ夫人は七反あまりの小作地を必死に耕して子供を育て、現在も元気に過ごしておられるとのことである。

田中高角砲隊・八十三防空隊(増援隊)

八十三防空隊・田中高角砲隊は増員隊として昭和十九年七月上旬、テニアン島に上陸した。十二糎高角砲四門と高射二連装機銃四門を陸揚げし、カロリナス台地の一端に対空陣地を構築した。ところが高角砲四門の据付けが終わるか終わらぬかの内に米軍機の空襲を受け、田中隊長は二連装高射機関銃を四門と部下を連れてマルポー方面の防空の任に着いた。残された田中高角砲隊員は分隊士、佐藤兵曹長が砲台長として指揮を執り、米軍機と壮烈な撃ち合いを演じた。次々と波状攻撃を掛けて来る敵機グラマンとの一騎打ちでは一機を撃墜するも衆寡敵せず、砲台員は次々と弊れ、ほぼ全滅という有様だった。完成途中の砲台も活躍する場も無く壊滅してしまった。マルポー方面に別れた田中隊長の隊も同様の悲運に見舞われた。真っ直ぐに突っ込んでくる米機に照準を合わせ、互いに猛烈に撃ち合うのだ。射手は米機の機銃に次々撃ち抜かれ、皮一枚残して腕を砕かれる者などバタバタと倒れ、ほとんどの隊員が戦死、あるいは重傷を負うなど地獄絵図そのままの状況を現出していった。

荒川始上水を悼む(田中高角砲隊・八十三防空隊)

荒川始上水は栃木県下都賀郡三鴨村に荒川浅次郎氏の長男として生まれる。昭和十八年五月に横須賀海兵団に入団、初期教育のみを受け上海陸戦隊に編入される。そこで毎日厳しい陸上の戦闘訓練を受け、昭和十九年始めに横須賀海兵団に帰団した。

時に南方戦線は風雲急を告げ、戦線の強化が急がれていた。帰団して間もない荒川上水もまた南方へ派遣される事になった。昭和十九年七月、彼を乗せた輸送船団は米潜水艦の攻撃をかいくぐり、無事テニアンに上陸した。テニアンでは第五十六警備隊の田中高角砲隊に増員隊として配属され、砲台の構築に汗を流した。しかし砲台の整備が終わらぬ内にテニアンは米軍の来襲を迎えてしまった。

田中高角砲隊の陣地はカロリナスの高台に構築されたため、米艦載機の格好の目標となってしまい、猛爆撃を受けて高角砲の砲身はむき出しになり、連日の爆撃に砲台の陣頭指揮を執っていた田中隊長は戦死、直ちに佐藤健雄分隊士が隊長代理となって残存の田中隊を指揮、ひるむことなく米機と交戦を続けるもサイパン南端の百門以上の砲列より打ち出す砲弾に打ち砕かれ、田中隊のほとんどが戦死、佐藤小隊長、荒川上水も壮烈な戦死を遂げてしまった。

この時点で生き残った田中隊員は僅かに数名のみ、この数名も七月三十一日の最後の総突撃で第五十六警備隊大家司令と共に米戦車群に肉弾攻撃を敢行、全滅してしまった。

荒川上水の弟正次氏は横須賀海軍工廠に軍属として徴用され、後に水戸の陸軍工兵連隊に入隊し、満州に派遣された。終戦となってシベリアに抑留され、復員後はトモ夫人と共に家業の米菓業を営み、兄の遺志を立派に継がれている。荒川上水、以て瞑すべし。因みに「ささら橋せんべい本舗」は創業百年の老舗である。

間庭上水のこと

昭和十九年四月一日出航予定の船団は二日遅れ、四月三日に横須賀港を正式出航した。米潜水艦の攻撃を極度に警戒しながらマリアナ諸島に向けて航行を続けていたが、四月九日午後四時過ぎ、ついに米潜水艦に発見された。船団は当時の日本を擧げての大小合わせて三十隻もあっただろうかと思う。

この米潜水艦の攻撃で「美作丸」他三艦が魚雷の命中弾を受けた。「美作丸」には陸軍と海軍の混成部隊が乗船しており、海軍の海防艦に助けられた。海防艦から広い板割りを渡し、美作丸から兵員が手伝い、負傷兵を順次海防艦へ移した。この中に間庭上水がおり、船内の火災で負傷していた。田村上水等が心配しながら救助作業を行い、間庭上水はその他の負傷兵とともにグアムの病院へ入院した。

間庭上水の火傷は順調に回復し、五月になってから、テニアンの航空隊地上要員となり、海軍の第二飛行場へ配属された。

田村上水は第二飛行場勤務について間もなく、総員十七名のヤップ島向け補充要員に選考され、ヤップ島でからくも一命をとりとめ、内地へ帰国した。(現在存命)

テニアン戦で航空隊は散り散りとなり、サイパンからの長距離砲の着弾により次々と仲間が戦死した。間庭上水は我々と共にカロリナスへ後退したが、ライオン岩の付近で守備隊と共に玉砕したものと思われる。

頭の良い優秀な兵が姿の見えない海の向こう、サイパンよりの集中射撃の砲弾のによって粉々になって戦死するのです。日本の上層部の方々は、この様な戦争を予想していたでしょうか。

テニアンの日本軍の悲愴な最期はこの時点で、米軍がウネハーブに上陸する前から決まっていたような気がしていました。

刑部上水、平野兵曹、間庭上水、西海石水長。久留米上水、鈴木兵曹、杉本砲長、他の皆様さようなら。

間庭上水の御遺族である娘さんがお孫さんを連れて、二度ほどテニアンへお参りに行かれました。久留米上水も御遺族がテニアンへお参りに行かれ、戦死者を弔う「平和観音讃仰和讃」をあふるる涙を抑え、声を限りに詠唱されておりました。

二本ヤシ柴田砲台の最期(小川隊・柴田砲台)

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昭和十九年七月二十四日、小川、柴田両砲台と米艦との激烈な砲撃戦、駆逐艦一隻撃沈、巡洋艦一隻大波の戦果を挙げるも、サイパンより回航の米機動部隊の猛反撃により両砲台とも壊滅的打撃を受けた。

柴田両砲台には砲術学校出の優秀な下士官が大勢いた。茨城出身の鈴木重正兵曹もその一人で砲の射手をしており、隊の甲板下士官も務めていた。秋田出身の藤田松治郎兵曹は砲長をしており、米巡洋艦との撃ち合いには、連続発射のため砲身にひびが入り、発射不能となる砲もあった。

この砲撃戦の始まる前、栃木出身の西海石水長ともう一人の水兵が、砲台の裏手の小高い丘の大木の所で米艦船の見張りをしていたが、米艦の発射した砲弾がその大木に直撃してしまった。大木は根こそぎ吹き飛ばされ、もう一人の水兵は大木もろともばらばらな肉片となり、壮烈な戦死を遂げてしまった。

西海石水長も両足切断という重傷を負い、三、四名の兵士が見守る中、水筒からの水を戦友が口に当てると、一口、二口飲み込み息を引き取った。壮烈かつ立派な最期を遂げたという。これは私が陸戦隊要員となり、小川砲台よりカロリナスへ後退する途中で藤田兵曹と会い、その時聞いた話である。

その後、柴田砲台は米艦の砲撃により壊滅的打撃を受けたが、米軍上陸の報に接するや、柴田隊長が先頭になり、白鉢巻で抜刀し、生き残った者全員が肉弾で敵戦車に立ち向かい、全員が戦死してしまった。

重傷を負っていた藤田兵曹だけは海岸に降り、海水で傷口を洗い、敗残兵として一年近く過ごした後、内地へ帰り秋田で亡くなっている。

小川隊で負傷し、日本へ帰国できた者は二百名中二名のみであった。

栃木出身の久留生上水は二本ヤシに小川隊の本部があった当時、夜になると私と郷里の話などをしながら、昼の残り飯を分け合って食べておりましたが、その彼も米軍上陸後、米戦車に突っ込み、戦死してしまったと言うことです。

テニアンの残存兵のうち、その後に夜の切り込み隊に参加して帰らぬ者も多く、自決した者も相当数いました。死にきれずに敗残兵をしている自分を、幾度情けなく思ったか知れません。一度自決をし損なった者は後ではなかなか死にきれないものなのです。米軍に撃たれて死のうと思い、何時もチャンスを待っておりました。腰の手榴弾の安全栓が錆びないように、何度も別の小枝に取り替え、何時でも発火できるように気をつかっていました。

茂木恒雄上水の武勇
(二本ヤシ柴田砲台)

テニアンに米軍が上陸した昭和十九年七月三十日頃かと思うが、米戦車群がマルポー水源池を越して小川隊二本ヤシ柴田砲台に向かって進行を始めた。柴田砲台では隊長の柴田中尉が白鉢巻に抜刀、藤田兵曹、鈴木兵曹以下残存兵が続き、米戦車群に突撃を敢行、重傷を負った藤田兵曹を除く全員が戦死してしまった。

この柴田隊の戦死者の中に茂木上水が死んだ振りを装っていた。米戦車をやり過ごした彼は手榴弾の安全栓をそっと抜き、前方を警戒して停止した戦車に飛び乗り、戦車がハッチを開けるや中に手榴弾を投げ込んだ。素早く戦車を飛び降りると近くのリーフの岩陰に身を潜め、別の戦車がこれに気付いて砲塔を向ける隙に駆け出して危うく一命を取り止めた。

茂木上水は死を覚悟で米戦車に立ち向かい一輌を仕止めてしまったのである。勇敢というか無茶というか大変な日本海軍水兵である。

彼はテニアンで生き残り、内地に帰ると東京の台東区で柱一本に焼けたトタン板で建てたバラックに住んでおり、私と高野(現森岡)が彼を訪ねた時は彼の奥様が小豆を甘く煮てもてなして頂いたのは今でも忘れられない思い出です。

その後彼は努力してトラックを三台も持ち、運送店を経営していたが先年亡くなり、現在は御子息達が跡を継いでおられるものと思います。

小林五三朗一曹のこと(小川隊)

小林五三朗一曹は栃木県大田原市佐久山の出身である。昭和十七年、水兵長であった彼は一旦郷里に帰っていたが、間もなく再度徴集され、昭和十八年、横須賀海兵団隣の水雷学校に入校、卒業すると遠洋航海に出た。上海、桑港、サイパン等を廻り、横須賀海兵団に帰団して陸戦隊員となり、後に二等兵曹に昇進した。

昭和十九年二月末、南方方面の陸戦隊要員となった彼は内地を後にし、死地に赴くことになる。

彼を乗せた三隻の輸送船団は二隻のキャッチャーボートに護衛され、横須賀港を出航した。東京湾を出るやいなや米潜水艦の出迎えを受けた。米潜水艦は日本軍の対潜攻撃を避け、外洋で攻撃を仕掛けて来るのである。

からくも米潜水艦の攻撃をかわした船団は小笠原諸島は父島の湾内に滑り込んで敵の目を眩ましたが、硫黄島付近に差し掛かってまたもや米潜水艦に発見され、魚雷攻撃を受けた。三隻の内、林丸は撃沈され、残った二隻も護衛艦の無い丸裸の状態でやっとの思いでサイパンに着いた。

サイパンに着いて間もなくテニアンに渡った彼は海軍第五十六警備隊・小川隊に配属された。小川隊の海岸砲台員になった彼は米艦隊と壮烈な撃ち合いをするも敵の猛攻の前に砲台は沈黙させられ、ここで生き残った彼もカロリナスの戦闘で敢えなく最期を遂げてしまった。

夫の戦死後、小林五三朗一曹の夫人サト様は二男二女の遺児を抱え、婚家の佐久山で古着の行商等、あらゆる商売をして艱難辛苦の上四人の子供を育てあげ、家を守り抜いたと言うことです。

晩年は長男一夫氏(故人)の世話になり、テニアン慰霊団にも参加され、次男の邦雄氏御夫妻も慰霊団に参加され、亡き父の御霊に祈られました。

陸軍の麻生隊

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81p.jpg テニアン守備隊は米軍の来襲に備え、上陸可能な海岸を選定し、防御陣地を構築する必要に迫られた。選ばれたのが島の北側のアシーガの浜であった。前記の海岸砲・及川十二糎砲台の右手にも百米弱の砂浜があったが、この狭い場所よりウネハーブの浜の方が可能性が高いとの判断である。

この方面に配置されたのが陸軍五十連隊の主力、麻生隊である。麻生隊はここにトーチカを構築し米軍の上陸に備えた。そして米軍はまさに此処、ウネハーブに上陸してきたのである。

上陸前の米軍の艦砲射撃はすさまじく、狭いウネハーブ前面の相当堅固なトーチカも南側の急ごしらえの土のトーチカも壊滅し、米上陸軍と戦う前に全ての麻生隊員が戦死してしまった。壮烈というも愚か、無惨な戦死を遂げてしまったのである。

米軍の上陸を関知した及川隊の残存兵、陸軍のラソ山西側方面の隊、ハゴイ地区の隊、チューロ付近の隊等が急遽応援に駆けつけたが時すでに遅く、麻生隊は全滅、及川隊も全滅、ラソ山西側の隊も正面より攻撃を掛けた為バタバタと戦死。米軍の艦砲の援護射撃によって戦いは決してしまった。米軍の上陸を許してから日本の守備隊は後退するばかりであった。上陸後の戦線はラソ山付近に移動するのだが、その付近の戦闘について詳細を知る者がいないのは無念なことである。

今回の五十回忌法要慰霊団に和歌山から参加されていた藤井久代様は麻生隊の御遺族で、再度のテニアン慰霊とのこと、胸中お察し申し上げます。

第一航空艦隊

第一航空艦隊は当時の日本海軍が最大の期待を持って編成された海軍航空隊の集団である。

昭和十九年二月、テニアン北部に基地司令部を置き、戦闘機、艦上爆撃機、偵察機、中型攻撃機、陸上攻撃機等、当時の海軍の新鋭機の全てが揃えられ、常時八百機から千機を保有していた。これを別名、基地航空艦隊と呼んだ。

テニアン北部に第一飛行場、その南に第二飛行場、第一飛行場の隣に第四飛行場、そしてマルポー水源地の近くに第三飛行場をも造成を計画していた。この周囲五十キロの小さなテニアン島が浮沈空母と呼ばれたのも頷かれよう。

しかし、偉容を誇ったこの第一航空艦隊も米軍の来襲の前に敢えなく潰え去ってゆく。

体制の整わぬうちに敵襲を受けた第一航空艦隊は連日連夜の出撃に次々と航空機を失い、

翼を失った海鷲達は地上要員と共に海軍陸戦隊となって米上陸軍に立ち向かって行った。

ラソ山付近とカロリナス台上にて米戦車群に突撃を繰り返したが、圧倒的軍容を誇る米軍にじりじりと押され、第一航空艦隊最後の司令部となったカロリナスの洞窟前方にて最後の肉弾突撃を敢行、ここに第一航空艦隊は玉砕する。時に、昭和十九年八月二日のことである。