寄稿文集
テニアン・我が青春の墓標
旧横森部隊・鴇田隊・海軍軍属
森岡利衛(旧姓高野)
徴用令
昭和十八年、私は東京は荒川の近く、尾久町にいた。叔母の経営する工場が此処にあり、私もそこで働いていた。戦争もたけなわであった故、若い男は皆兵隊に征き、当時十七才であった私だけが残っていた。あとは五十から六十を過ぎた、昔から此処で働いていた人達だった。何時も元気で男勝りであったが、叔母は何かと私を頼りにしていた。
夏も終りに近付き、荒川の水も冷たく感じられるようになった頃、一枚の手紙が舞い込んできた。
「これ、利衛にも徴用が来たわ」叔母が私にその葉書を見せて言った。暫くして
「しょうがないなー」自分に言い聞かせるように言うと叔母は諦めた様子だった。徴兵とは異なり、徴用は本籍に戻らずとも現地で直接出頭することが出来る。私の兄は郷里の福島から徴兵され、会津若松連隊に出征していた。工場のことが一寸気に掛かったが、新しい仕事にもまた夢があった。不安もあまり感ずる事もなく、短い期間の中で出発準備に追われていた。任地である横須賀の沼間に出発する日、工場の人々や隣組の人達が田端駅まで私を見送ってくれた。
沼間に着くと新しく造られた寮に入ることになった。同年令の者が多かったが、年輩の方も三分の一程いた。出身地もまちまちであったが私の周囲には岩手県の方が多かった。
私達は徴用であり、軍隊とは違って日常生活もそれほど厳しく感じられなかったが、一度だけひどい目にあった事がある。
私達は時々外出していたが、五人の仲間と鎌倉へ遊びに言った時に九時の消灯に遅れ、一列に並ばされて往復ビンタを喰らわされ、目から火が出た。
この五人は何時も一緒で、鳥海、大山は私と同年令で同じ荒川区から徴用され、他に日高、島田さんがいた。島田好雄さんは小柄で丸顔、私より五つも年上の人だったが、荒川区の日暮里か三河島でお菓子屋さんをしていた。私の叔母の家も島田と言ったから、親戚のように思えて何時も島田さんと呼んで甘えた。島田さんも何かにつけて私のことを心配し、面倒を見て呉れていた。
有線隊
私達五人のメンバーは同じ有線隊に入っていた。横須賀海軍工廠・田浦造兵部の中に有線部があり、五、六十名の部員がいた。有線とは電話線の事である。
年が明けた昭和十九年、横須賀海軍鎮守府の中に電話交換室があり、そこで交換台の配線、電話機の修理などを勉強した。鎮守府の入口に守衛が不動の姿勢で立っており、私達も此処を入るときは挙手の敬礼をし、偉くなったような気分であった。
田浦に電柱を立てに行った時のこと、終わって造兵部に帰ると、南方方面に半年間出張の仕事のあることが発表された。浅見少佐から、
「誰か希望者があれば申し出るように」言葉が終わらない内から全員が手を挙げて答えた。あまりにも希望者が多かったため、次の日、浅見少佐から指名された。総員三十七名だった。
テニアン島へ
田浦と沼間の間にトンネルがある。朝夕、田浦造兵部に通う行員がトンネル内を一杯になって歩いた。トンネルに入る手前に、山に沿って北に登る道がある。四百米ほど行くと射撃場がある。其の近くに有線部倉庫があった。そこで毎日出発準備の荷造りを続けていた。電話機、ケーブル、スコップ、一つ一つチェックしながら、見た事のない南国を天国のように思い浮かべながら出発を待っていた。
荷造りも殆ど出来たが、出発日が度々延期された。いよいよ出発と決まった前の日、近くに親戚の有る者に一泊休暇が出された。何時もの五人は支給されたリュックを背負って上野駅まで来るとそれぞれの家に向かった。
暫くぶりに会った叔父も叔母も大変喜んでくれた。何時も床に臥せっている叔父も起きて色々と話をする。叔母も現地での水や食べ物の事などこまごまと注意してくれた。従姉の芳枝さんはお守りを渡してくれた。夕食はシチュウを御馳走してくれた。
次の朝、叔母が横浜駅まで送ってくれた。私が見えなくなるまで立って見送っていた。
昭和十九年四月十日、私達三十六名を乗せた二十一隻の船団は一路トラック島を目指して出航した。航海中、何度か敵潜水艦と遭遇したが、船団を警備している駆逐艦の爆雷攻撃で撃退し、十日目に無事サイパン島に着くことが出来た。航海を無事に終わったことで船内は大いに賑わい、演芸会も催された。
ルリ色に輝く海面、緑に覆われた南の島・サイパン島、太陽は眩しく照り付け、一層鮮やかさを見せ付けている。
「あっ、あれがバナナだ。」「あそこに椰子の木が。」目に映る物すべてが珍しく、甲板の上は人で溢れていた。まさに天国に居る思いだ。
先に船を降りていた鴇田隊長が戻って来た。
「全員集まるように」との事に船室から隊員全員を呼んで来る。
「木工部を除いて全員サイパン島に下船する。」との話に私達の心は躍っていた。
涼風を受けながら横森隊長のいるガラパン街に着いた。道路は焼き付きそうに熱い。だが街の中は賑やかでいろいろの店が軒を並べている。処々に内地に疎開して戸が〆切になっている家も目に付いた。
一週間ほどサイパン島に前から居た隊員と一緒に電話線引きをしていたが、トラック島へ行く全員がテニアン島での作業に就く事になった。テニアン島はサイパン島から南に約六キロ離れた小さな島である。これといった高い山は無く、比較的平らな島であるが、軍事的には重要視されていた。約九十八平方キロの小さな島に飛行場が四つも建設されており、浮沈空母と言われていた。
この島を米軍が占領すると、第二次大戦中世界最大とも言えるノースフィールド飛行場を建設した。此処からB29に今日なお世界の恐怖の的である原爆を搭載し、広島、長崎に未曾有の災厄をもたらした。テニアンは世界に平和を呼び掛ける原点の島である。
テニアンに着くとサイパンより暑く感じられた。山の緑がサイパンより少ないのも理由の一つだろう。島の九十パーセントは耕作地で、椰子の木は見る事が出来なかった。ソンソン町はサイパン島のガラパンに似て、映画館もあった。
私達の宿舎には郵便局隣の空き家が当てられた。ケーブル、ガイシ、電話線など、内地から持って来た荷物は郵便局後ろの広場に纏めて置いた。
米軍の空襲
テニアン島には高い山は無いが、島の中央北側にラソウ山と言う標高約百七十二米の長く伸びた山と南東側に約百七十米のカロリナス台上がある。カロリナスに続いて北に小高くサバネタバシ台上がある。島の殆どは耕作されており、砂糖黍が主に作られていた。
ソンソン町には台湾に次いで東洋第二位と言われる南洋興発株式会社の精糖工場があり、煙突が天高く聳えていた。興発会社社長の松井春治翁は福島県会津出身で現在もサイパン島泉神社に勇壮な姿の銅像が残されている。その縁で興発の社員は福島県出身が多かった。
テニアンに着いて荷ほどきも終わると仕事に取り掛かった。カロリナス、ペペノゴル、マルポー、ラソウ、ハゴイ、チューロとトラックに乗ったり、歩いたり、島中に電話線を引き、ケーブル線を引き、電話機を設置し、部隊から部隊を結んでいった。
下着は何時もビショビショであったが仕事から帰って兵舎に戻るとシャワーを浴び、洗濯を済ませると砂糖黍から造ったラム酒や南十字星で乾杯をした。時には本部から月桂冠が支給された。私は下戸であったが歌や民謡を歌って楽しんだ。こんな時は半年で帰るのが惜しいように思った。しかし、
ある日の早朝、ダイナマイトの炸裂音に目を覚まされた。驚いて飛び起きるとソンソン町の東側に第三飛行場の建設が始まっていた。ハゴイにも第一飛行場に並んで第四飛行場が建設中であった。ペペノゴル砲台にはテニアン島最大の十五糎砲三門が運ばれようとしていた。
「今日は何処まで運んだかな・、俺の方が当たったかなー」と私、「いや、あそこ迄は行かない。何せ重いからなー」と大山。毎日暑い中を作業していたので、たわいない賭けをして暑さを紛らわせていたのだ。何を賭けていたかというと、ペペノゴル砲台へ運んでいる十五糎砲の砲身がその日はどこまで運ばれたかというものだった。
興発会社を過ぎてカーヒー、チューロに向かう道に沿って軽便鉄道が敷かれている。このレールを利用してコロに砲身を乗せ、テコで押して大勢で運んでいたのだ。どうしてトラックで運ばないのかと皆で不審がっていた事もあった。
この砲がやがて大活躍をする。現在もペペノゴルに一門が残されてある。この件に付いては相良氏が詳しく書いているが、このペペノゴル小川砲台の運転員であった相良智英、この人と一緒に敗残兵をする事になるなど夢にも思わなかった。
こうしてテニアン島の守備は着々と進められていた。だが、米軍は我が陣地改築の完成を待ってはいなかった。
昭和十九年六月二十一日、日曜日であった。仕事は休みで、町に買い物に行く者、海水浴に行く人、思い思いに楽しい時間を過ごしていた。私は東京の叔母や田舎の友人に手紙を書いていた。時間は昼時であった。すぐ前の郵便局の鉄塔に設置されていたサイレンがけたたましく鳴り響き、全島に空襲警報を知らせた。
「アッ、空襲だ」
書き掛けの手紙をリュックに詰め込み、隊員の集まるのを待った。
何処からか鴇田隊長が急いで帰って来、全員が集まったのを確認して指示を出した。直ちに荷物を纏めてリュックに入れ、カロリナスの住吉神社を目標に急いだ。ソンソン町の住民も殆どカロリナス台上に向かっていた。
カロリナス台上に登り、窪みの所で空襲が解除になるのを待った。誰かが「これで戦地に来た様だなー」と声高く話していると、これに返すかの様に「なーにどうせ直ぐ解除になるさ、ヤンキーなんか直ぐ逃げてしまうよ」
その言葉を信じたかった。だが数時間が過ぎると、翼を切り取ったようなグラマン戦闘機が遠く、ハゴイ、サイパンの辺りの上空で無数に旋回しながら攻撃し、爆弾を投下している。其の中で友軍の高角砲、機銃が猛烈に応戦している。黒煙を吹きながら海中に消えるグラマン機に、「万歳、万歳」と歓声を上げながら見ていた。
初めて見る米軍との戦闘だった。我が軍の猛烈な対空砲弾の中をかいくぐる様にして友軍の陣地に急降下するグラマン戦闘機、私は内心驚いて眺めていた。米兵にも国を愛する心がある事を見せ付けられた感じだった。
羅宗の司令部
以後、空襲警報の解除はなかった。
昭和十九年六月十三日、サイパン島の方角からエメラルドのように光る海面上を小さい塊のような物が近付いて来た。カロリナス台上からはテニアン島最北端の牛岬からサイパン島辺りが良く見えた。
「あれは船だ」誰かが言う。だが、友軍か米軍かの判別は未だ出来ない。
「友軍の艦隊だ」と踊るばかりに叫んでいる者もいる。しかし、敵のグラマン機は容赦無く攻撃を続けている。その数、数百機。我が軍の高射砲弾は日に日に欠乏していった。
刻々と近付いて来るそれは大きく膨れ上がり、やがて海原を覆うばかりに敵艦隊の姿を現した。サイパン・テニアン海峡は戦艦、巡洋艦、航空母艦とあらゆる船で埋め尽くされ、海面を見る事が出来ない程だった。
敵艦隊が近付いて来ると戦闘機の爆撃に加えて猛烈な艦砲がサイパン、テニアン両島を襲った。砂糖黍畑は燃え、家は吹き飛び、島中が瓦礫の山となった。サイパン島オレアイ付近に集結した米艦隊は遂にオレアイ海岸からチャランカ海岸にかけて上陸した。
隊長が全員を集めて、「これから我等は軍の指揮下に入る。もはや我々は軍属ではない。十分任務に励むように。」と訓辞をした。我々の内十五名は隊長と一緒にラソウの第一航空艦隊司令部本部洞窟に向かった。島田、佐々木、金子、日高等十数名はソンソン町近くにある海軍第五十六警備隊大家司令本部に向かった。
ハゴイの日の出神社の南の方からラソウに登る。司令部洞窟までの百七十米ほどは急な所もあり、大変苦労した。ラソウの台上に出ると立派な羅宗神社があった。現在もタガンタガンの中に碑が立っている。司令部の洞窟からはサイパン島が良く見えた。司令官が夕方になると土嚢が積まれている所に出て双眼鏡でサイパン島の戦況を見ていた。この頃、テニアン島では米軍上陸に備えて色々と検討されていた。
ラソウに着いて二、三日すると鴇田隊長は我々の本部であったカロリナスに帰って行った。それからは鈴木栄司隊長が我々を指揮した。第一航空艦隊司令長官角田角治中将がここに入る以前、我々は何度か此の洞窟に電話交換台や電話機の取付けに来たことがある。
司令部本部洞窟近くにいた我々は艦砲射撃の中、ハゴイにいるキジ、トビ、ハトの航空関係の部隊、郡司、沼田、及川の各砲台、タカ部隊第二送信所と、十五名で休みなく電話線の修理に当たっていた。
ラソウの司令部に来て二十日ほど過ぎた頃、私はデング熱に患ってしまった。熱が出ると頭痛、吐き気、下痢で苦しんだ。歩くにも力が無く、有線引きにもふらついた。鈴木栄司隊長が心配そうに覗き込んで、「高野、これでは無理だ。本部に帰れ、誰か代わりに来て貰うから」「ハイ、明日早く出発します」と言うと、「気を付けて帰るように」と励ましの言葉を掛けて呉れた。
平成五年五月、福島県の飯坂温泉で戦友会が行われ、十名ほど集まった中に、鈴木隊長が居られた。あれから五十年近く経っており、互いに顔は判らなかったが、ラソウで別れた時の事は互いに忘れられない思い出の一つであった。
テニアン島第五十六警備隊本部への配属
朝のまだ明けきらない中、ラソウの山を降りた。下には松本五十連隊の隊員が暗い中を動いているのがわかった。私達の本部はカロリナス台上にある。二十キロ近く一人で歩かなければならない。歩くだけでも大変なのに、サイパン島からの砲撃、グラマン機の爆撃、米艦隊からの艦砲射撃の弾雨の中、しかも衰弱した体を引きずって歩かなければならなかった。
ラソウの下を南北に真っ直ぐに広い道路が走っている。現在ブロードウェイと呼ばれている道である。人影のないその道を私は歩いていた。
テニアン島は殆どの道路が碁盤の目のように設けられ、それに沿って防風林が植えられていた。
明るくなるのを待ちかねたかのように、サイパン島のアスリート飛行場から飛び立った米軍機がテニアン上空を我物顔に飛んでいる。我軍は米軍の上陸に備えて弾丸を温存していたため、敵機の跳梁を許していたのだ。私が海軍第二送信所の近くまで来ると、また編隊でこちらに向かって来た。道路の防風林に身を隠し、去るのを待って歩き出す。どうも危険極まりない。
途中、二度休憩したせいか腹の中もすっきりしていた。出発の時にカンパンを六枚貰ったが食べてしまったので腹が空いて来た。「あゝそうだ、もう少し行くと瓜畑があった筈だ。」と思い出した。この道を行くとT字路に当たり、西に向うとチュウロに出る。チュウロには警察署、学校、小さな店屋も有った。東に行くとサバネタバシに出る。ここでは米軍の空襲の始まる前、テニアン島守備隊は勿論、設営隊や民間の方々まで陣地構築に励んでいた。
我々がラソウ司令部に電話線を引いていた頃、このT字路の二、三百米手前の所でトラックが事故を起こしているのを見たことがある。そのトラックは道路から飛び出し、道路脇の防風林の細い木に引っ掛かっていた。防風林がなかったら二米ほど下の黍畑に墜落するところだった。
「居眠りでもして居たんだろうか」、「何処の隊だろう・、この忙しい時に」、「こんな真っ直ぐな道で」と、ことの事情も知らずに、横になったトラックを眺めながら勝手なことを言っていた。このトラックを運転していたのが小川隊の運転員、相良智英さんだった。この頃から彼とは見えない縁で結ばれていたような気がしてならない。
この時に仲間の一人が瓜畑を見つけていたのだった。持ち主も避難して誰も取りに来ない畑には食べごろの瓜がいっぱいころがっている。畑の真ん中に腰を下ろし、瓜と瓜をぶつけて割って食べた。喉が渇ききっていたから、下痢をしていることも忘れて夢中で食べた。実にうまかった。『そうだ、カロリナスの友人にも食べさせてやろう』と、手拭いを広げて包んでいると、爆撃機が直進してくるのが見えた。お土産どころではなくなった。
少し離れた所に大きなパンの木があった。急いでその下に身を隠したが飛行機は早い、隠れる前に二十五粍機銃が体をかすめた。飛行機は畑の中のパンの木の周りを廻っている。私もパンの木を盾にしてグルグル廻る。畜生、と思いながらパンの木の葉陰から見上げるとパイロットも窓からこちらを見下ろしている。パンの木に機銃をバリバリ撃ち込んだが当たらない。私の方が廻るのが早かった。爆弾を落とされれば一貫の終りだが、ソンソン町にでも落として来たのだろう、爆弾は積んでなかった。そのうち諦めてサイパン目掛けて消えていった。私は急いでカロリナス台上に向かった。
住吉神社前の急な階段を登って台上に出る。百七十米の高台はテニアン島を見渡すことが出来た。台上に電波探知機があった。八十三防空隊の高角砲四門もここにある。そこを通過して東海岸のジャングルに入ると、そこはテニアン各地から避難してきた民間の人々で一杯だった。到るところ、木と木の間に雨よけを張り、夕食の支度をする人、横になっている人、本を読む人、ジャングルの中は賑やかだった。
鴇田隊本部の北の方には松本五十連隊本部洞窟、更に北には第一航空艦隊司令部本部洞窟があった。この洞窟は地下三十米程もある鍾乳洞で現在も石灰水が流れている。
我々の本部では残っている友人が私を暖かく迎え、休養させてくれた。しかし有線隊の隊員が少なく、完全に治らないままテニアン島守備隊本部に配属になった。第五十六警備隊本部には島田、佐々木、金子、日高と、同じ隊員十四、五名行っていたが、四名が負傷して病室に入っているとか。だが、何処に居るのか見舞いに行くことも出来なかった。
五十六警備隊本部に配属になると、ペペノゴルの小川砲台、カロリナスの柴田砲台、田中隊、サバネタバシ砲台、新湊にあった及川砲台、タカ部隊、マルポーの水源地、と守備隊関係を歩き廻った。砲弾、爆弾の降る中を八木沼さんと二人で洞窟を出発する。八木沼予次郎(旧姓菊地、福島県伊達郡桑折町在住)さんは携帯用電話機を担ぎ、私は有線の束を持って出掛けた。
断崖に沿って東に向かってサバネタバシ砲台に向かった。上空には敵機が編隊を組み、胴体には爆弾を抱えてソンソン町に向かっている。テニアン港には我が軍の砲撃のない事を知ってか、敵艦三隻が悠々と近くまで来ていた。八木沼さんと二人で敵に見つからないように防風林に隠れながら電話線の切断箇所を探して歩いた。
ところが、艦上から双眼鏡で見ていたのか、我々を目掛けて艦砲を撃って来た。「ドガーッ」と艦砲を撃つ音と炸裂する音が同時だった。「やられたッ」二人は素早く地面に伏せた。三発の艦砲の内、二発は離れた所で炸裂したが、一発が我々二人をかすめて四、五米先に落ち、木を根ごと五、六本なぎ倒して止まった。不発弾だったのだ。まさに天の助けであった。落ち着いてから弾丸の所に行くと十五糎砲弾のようだ。二人でさわってみるとヤケドするぐらい熱かった。急いで切断箇所を探して修理を終え、無事に五十六警備隊本部に戻ることが出来た。
敵艦隊は殆どサイパン島を攻撃していたが、昭和十九年七月十八日、サイパン島が玉砕したことを大家司令が話された。戦没者に対し黙祷を捧げ、我々もまたサイパン島の勇士に負けることなく戦い、常に民間人を守り、最後まで戦うよう訓令された。
米軍テニアン島へ上陸
サイパン島玉砕を知らされると親か兄弟を亡くしたかのように思われた。「テニアン島に上陸するだろうか」誰もが心配顔で聞き廻る。「こんな小さい島へは上陸しないよ」誰かが言うとホッとする。しかし、そんな言葉も気休めでしかなかった。米軍の攻撃は一段と激しさを加えて来たのだ。
サイパン島からの重砲、新型のナパーム爆弾、艦砲の砲弾、飛行機からの爆弾と地形が変わるほどの攻撃で電話線は無惨に飛び散り、焼けただれた。この頃から本業の電話線修理に伝令を兼ねて出掛けるようになった。
昭和十九年七月二十四日未明、敵艦隊はテニアン湾近くに集結した。五十六警備隊本部洞窟内からはソンソン町からカロリナス湾内まで総て展望することが出来た。巡洋艦、駆逐艦、輸送船が暗闇の中で不気味に動いていた。東の空がうっすらと明るくなった時、米軍の攻撃が始まった。百雷の轟音と火の海にソンソン町は包まれた。この時、五十六警本部から「戦闘開始」の命令を各砲台に発した。
午前六時五分、米軍の砲火に応えて友軍の各砲台が一斉に火蓋を切った。米巡洋艦、駆逐艦、上陸用舟艇にかなりの損害を与えると米艦艇はテニアン湾内を半円を描いて逃げて行く。バンザイ、バンザイ、洞窟内は喜びに沸き立った。しかし、その日の昼、伝令によってハゴイの海岸とウネハブィ、ウネチューロに上陸されてしまった事が解った。
警備隊本部カロリナス台上へ
大家警備隊司令から、老人と婦女子は全員カロリナス台上及び東海岸に避難、誘導するよう指示が出された。我々有線隊は以後伝令として動くよう命令された。
同年七月二十七日、カロリナス台上へ最後の電話線修理に本部の伊藤隊員と朝早く出発した。伊藤さんは特別大きく、一緒に歩くと大人と子供に見える。しかし彼はおとなしい人で小柄な私に合わせてくれているのか、あまり急ぐ事もなかった。力もあり、補助電話機を持った上、有線まで持ってくれた。今迄にも何回か一緒に歩いたが、何時も私が畑の中を駆け巡って西瓜や瓜を取って来ては米軍に見つからないよう、防風林の下に隠れて食べたものだった。なかなかスリルがあって余計に甘かった。しかし今はそれどころではない。米兵が同じ島の数キロ先に居る。一分でも早くカロリナス台上にある田中隊と警備隊本部の間の不通になった電話線を修理しなければならない。カロリナスに避難する民間人を指示誘導するために必要なのだ。幸い敵に見つかる事なく田中隊に着いた。
「米軍がソンソン町に近付いたら警備隊本部はカロリナス台上南端に集結する。我々はカロリナス台上を死守する。台上に来る民間人は東海岸に避難させる。」以上の本部の訓令を隊長に伝え、電話を復旧させ、田中隊に別れた。
昼は過ぎていた。田中隊を出て五百米程歩き、住吉神社近くに来たとき、サイパン島からの重砲の発射音が豆を煎るように聞こえて来た。炸裂まで十秒近く掛かる。この間に爆弾で開いた穴に入るが二人一緒には入らない。一人が怪我をしても残った一人が任務を果たす為であった。爆発と同時に気を失った。暫くして気が付くと、頭がもんもんする。体中が痛い。耳が塞がっているような感じだ。
何処を通って帰ってきたのか解らない。警備隊本部の前まで来ると、島田好雄、佐々木と、同じ隊の隊員が「高野、どうした、」「大丈夫か、」と言っている。この時初めて気が付いたが、自分でもどうなったのか解らなかった。伊藤さんが病院に一緒に行ってくれた。
病院は本部の近くにあった。病院と言っても洞窟の中に設けられた野戦病院で、入口が一間半程であったが入って行くと驚くほど中が広かった。奥の方は後から広げたのだろう、ランプやローソクの明かりでリーフがダイヤのように光を放っていた。その中を歩く所も無いほど毛布を敷いて、その上に身動きも出来ないほど負傷者が運び込まれていた。
衛生兵が近付いて来て伊藤さんと話をしていたが、私の側に来て体中をさわってみてはまた何か話しているようだ。耳元で「聞こえるか」と言われて「左が聞こえる」と言うと、伊藤さんに促されて洞窟を出た。外は真っ暗になっていた。本部洞窟に戻る途中、戸板で運ばれて来る何人もの負傷者に会った。後で聞いたところでは、「耳の聞こえなくなった位は怪我の内に入らない」と衛生兵に言われたそうである。しかし、大家司令に本部洞窟内で休むように指示され、作業に行く事は無かった。
同年七月二十八日午前十時過ぎ頃、この洞窟病院は米軍機の直撃弾を受け、全員生き埋めとなってしまった。あの衛生兵に追い返されなければ私も間違いなく生き埋めとなっていただろう。
現在、この洞窟には島民の方がマリヤ像を祭っている。
翌二十九日、米軍が第二飛行場に入ったと伝令が知らせて来た。その夜、警備隊本部は全員カロリナス台上に向かった。途中、食料をカッチ工場方面に運ぶ隊員とカロリナス下の軽便鉄道終点で別れ、我々はカロリナス台上を目指した。我々の通ったその道は現在も使われており、台上で牛の放牧をしている為、周囲をバラ線で囲い、入口には鍵を掛けてある。
本部最後の総攻撃
二十九日の夜半過ぎ、カロリナス台上南端に到着した。辺りはまだ暗く、断崖があって危険なことを全員に知らせた。三十日の朝に近かった。私はようやく歩いて来た疲れで、この日は夜半まで眠ってしまい、日にちを一日勘違いしていたらしい。
三十一日、「敵戦車、カロリナス台上に向かう」と伝令が伝える。本部内では戦車破壊隊を編成した。決死隊である。我々は佐竹中尉の指揮下に入った。斉藤、日高、佐々木、金子、斉藤、私の有線隊員六名と海兵隊員六名の十二名の編成であった。何くれとなく私の面倒を見てくれた島田好雄さんは別の隊に編入された。島田さんは私が負傷してからは伝令から帰るといつも私の側に居て色々と話してくれた。
「敵戦車、台上に来る」この報に接し、本部は最後の無電を内地に向け発信した。「昭和十九年七月三十一日午後零時零五分、五十六警備隊本部、最後ノ突撃ヲ敢行ス、祖国ノ安泰ト平和ヲ祈ル」これが電文だった。この状況も島田さんが詳しく話してくれた。
全員、固く手を握り合い、「今度会う時は靖国神社で会おうなー。我々が死んだ後に必ず平和が来る」語り合いながら平和になることを信じ、突撃に向かった。
佐竹中尉は襟の階級章をもぎ取り、軍刀を鞘から抜き取ると先頭に立って洞窟を出た。続いて我々も洞窟の梯子を登って行った。最後に私が梯子を登ろうとした時、洞窟の中を覗き込んで何か叫んでいる者が居る。『我々はこれから突撃に向かうのに今ごろ何を叫んでいるのだろう。』と、遅れた私は少し憤慨気味で急いで登ろうとした。ところが彼は梯子を急いで降りて来るではないか。梯子の中間ですれ違った。『何という奴だ、』と思いながら洞窟を出た。
この『何という奴』が相良さんだった。後でこの時の事を聞くと、彼の沼田隊の残存兵が全員で自決をするため、上官の命令で大急ぎで沼田少尉を呼びに来たとの事だった。相良さんとは一ヶ月程して再会し、米軍に捕まるまで敗残兵生活を共にした。
洞窟から出ると直ぐ目の前に米軍の戦車が東の方に砲身を向けて止まっている。歩兵の姿は見当たらない。戦車に見つからないように断崖の縁を二、三米程西に向かった。しばらく行くとリーフが一米から五十糎位の高さで板を立てたようになっている所に出た。そこで我々の見たものは、遥かな祖国を遥拝するように北の方向を向いて一列に並んで自決している姿だった。その中に一人だけ未だ息のあるものが居た。コメカミから血を流し、死に切れずにいたが最早どうすることも出来なかった。これも後で解ったことだが、この人達は先程会った相良さんの居た沼田隊の残存兵で、相良さんも此処で自決する筈であったと言う。死に切れずにいた人は山梨出身の刑部好久と言う人で、相良さんと仲の良かった同僚であったと言う。また刑部さんの家は、五十回忌慰霊の折り慰霊団に参加された富士吉田市の宮下時雄さんの家の近所であることが解った。
沼田隊の最期を見届け、さらに西に向かった。カロリナス台上を北から南に走る幹線道路に出た時、焼けただれた砂糖黍畑の茎だけが棒杭のように立ち並んでいる中を米戦車が近付いて来るのが見えた。戦車は四台でゆっくりと近付いて来た。我々十二名は黍畑に伏せて戦車の近付くのを待った。だがこちらが攻撃する前に見つかってしまい、戦車の猛攻撃を受け、佐竹中尉以下十名が戦死してしまった。残ったのは私と斉藤の二人きり。二人だけではどうすることも出来ず、戦車四台の猛攻の中、本部に向かって黍畑の中を夢中で逃げた。二人が走る前後の砂糖黍の茎が機関銃弾でビシッビシッと折れた。畑の中程まで走った時、斉藤が倒れた。銃弾の激しさに戻ることなど出来なかった。
カロリナスの断崖上での最期の突撃に加わったのは四百人程であったが、殆どが戦死し、生存者はごく僅かであった。生き残った海軍田中隊の伊藤義雄、陸軍誉部隊の阪本金蔵と私の三人は戦闘地跡に見つけた小さい洞窟に入り、毎日敵の様子を窺っていた。しかし食料も無く、毎日甘藷の葉を生で食べていた為、歩くにも力が無かった。
そうした或日の夜、テニアン町の煌々と輝く電灯の明かりと米軍のトラックの数を見たとき、生きる望みが絶たれた。三人が自決するべく断崖に来たとき、伊藤さんと阪本さんに止められた。
「高野さんは軍属だ。何事があっても自分から死ぬ事は考えるなよ・。生きて居るんだぞ、そしてもし友軍が来たら守備隊は良く戦った事を伝えてな・。我々は帝国軍人として戦友の待つ所へ行く」と言って、暗闇の中で私をいつまでも見送っていたが、五十米ほど離れた時、手榴弾が炸裂した。
それからは只一人で生きていった。数日後、米軍の待ち伏せに会い、胸部貫通銃瘡を受けた。ようやく歩く事が出来るようになった時、毎日隠れていた小さい洞窟で米兵に見つかり、手榴弾攻撃を受け、首の後ろを抉られた。意識不明になったが、また命を長らえる事が出来た。それから直ぐ相良さん達と会い、一年近い敗残兵生活をする事になる。その後も数十回に渡って米軍の攻撃を受け、私も重傷を負ったが、かろうじて此の世に留まる事が出来た。
昭和二十年七月末日、米軍の塵捨て場で投降。
昭和二十一年十二月二十四日浦賀に上陸、復員する。
あとがき
テニアンでの数十回に及ぶ米軍との遭遇、其のつど米軍の攻撃を受け、重傷を負うこと数度、その度に生き長らえる事が出来たのは不思議と言うほか有りません。
しかし、祖国のため平和になる事を願って若い命を異国の地に散って行かれた戦友を思う時、祖国の繁栄と平和に浴する事なく国の定めに従って御霊となられた戦友を現地に御供養することが私達の勤めである様に思えてなりません。幸いにして、羅宗にあった第一航空艦隊司令部本部、角田角治司令官が居られた洞窟、そしてテニアン町の北西にあった第五十六警備隊本部、大家吾一大佐が居られた洞窟と、両本部に配属になったのは私一人であり、戦火の中、テニアン島を隈無く歩く事が出来ました。
今後も遺族の方々を現地に御案内し、御霊となられた方々の御冥福をお祈り申し上げる所存でおります。
合掌
平成五年秋彼岸
片平運転員(野田利勝氏の資料に拠る)
昭和十九年三月頃、片平一等水兵はテニアンに上陸した。内地を発ったのは前年十二月二十五日。千二百名の兵員を乗せた玉嶋丸三千六百トン外、三隻の輸送船は護衛艦二隻に護られてラバウルを目指して出航したが、トラック島の東方三百海里の洋上で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。片平等は四時間漂流した後救助され、春島へ上陸した。後に夏島へ移動させられ、そこで防空壕堀りをしながらテニアン島への出発を待った。テニアン島に短期間滞在した経験のある古参の下士官は、「テニアンはいいぞ。あのボカチンで不運も尽きた事だし。」と、防空壕堀りなど上の空で誰彼と無く話し掛けていた。
やがて出航となり、テニアン島に到着すると、青く澄んだ海に心地よい風が吹き渡り、下士官の言ったことは本当だったと思った。何よりもトラック島での最悪の食事から解放されたのが嬉しかった。南洋興発の倉庫には酒も沢山あって申し分無い環境に思えた。
片平等は第五十六警備隊に配属された。もっとも五十六警と言う名称は後になって知ったことで、当時はウ三三九部隊という暗号名を知るのみで、手紙にもそう記していた。五十六警の司令部はテニアン支庁にあり、その裏の役場が片平等の宿舎に当てられた。片平は運転員の筈だったが、上陸した翌日から他の兵隊と共にまたしても防空壕堀りをやらされた。火葬場裏の丘の中腹で褌一本で連日金槌を振るった。直径十糎、奥行き六十糎くらいのダイナマイトを仕掛ける穴を掘るのだが、蒸し暑いのと堅い岩盤に遮られて作業は困難を極めた。一日十本のダイナマイトを仕掛けなければならなかったが、数を胡麻化そうとしても司令部で発破の音を数えているかも知れないと心配する者が居て、それならと数カ所だけ掘って後は適当に爆発させて数を合わせた。そこまでしても防空壕堀りは苦労を強いられた。この壕は戦闘指揮所と呼ばれ、六月始めまでは空襲の度に大家大佐以下の司令部が避難したが、本格的な空襲が始まると司令部はそっくり移動してきた。
七月初旬のある夜、本来の運転員の任務を行っていた片平は沼田砲台に向かってライトを消したトラックを運転していた。
沼田砲台はテニアン島の北東、アシーガ湾岸の断崖上にあり、急造した砲台の基礎は完璧なものではなかったが、十二糎砲三門の砲口が水平に海をにらんでいるのが月明かりの中にくっきりと見えた。
砲台に着くと、砲台付近には五十名以上と思われる兵隊が張りつめた空気の中にいた。下士官が一人近付いてきて小声で「あそこの」と指さして、二百メートルばかり離れた場所で待てと言い、「すぐに出発できるようにしておけ」と念を押すように命令した。海の方を見ると米艦がすぐ近くに見え、即座に了解した。
そこで暫く待っていると「てーッ」と言う声が聞こえ、同時に三門の砲が轟音を発して火を吹き、先程の下士官だと思われる者がトラックの助手席に乗り込み、「出せッ」と荒い声で命令した。同時に複数の兵が荷台にも乗り込んだらしく車体が揺れた。しかし砲台にはまだ兵隊が残っており、砲声は続いていた。
片平の脳裏にボカチンの光景が蘇った。
片平達の乗っていた「玉嶋丸」は今まさに沈もうとしていた。逸早く救命艇に乗り込んだのは下士官連中であった。彼等は「早く降ろせーッ」と怒鳴ったが、降ろし方を知らない兵達は二本の固定ロープの片方だけ緩めてしまい、救命艇が逆立ちし、下士官達は海にこぼれ落ちてしまった。
置き去りにされる兵達は逃げる下士官連中に一瞬憎しみを感じたが、こぼれ落ちてしまった彼等を見て溜飲を下げた。
仲々トラックを出そうとしない片平は「上官の命令が聞けないのかッ」と立て続けに罵声を浴びせられて仕方無くアクセルを踏んだ。横目に米艦が火災を起こすのが見え、一時下士官もそれに見入った。艦はすぐに後退してアシーガ岬の方へ移動するようだったが、その艦からか、あるいは別の艦からか判らなかったが、砲弾が沼田砲台に打ち込まれ、あたりに物凄い爆発音が連続して起こった。
「出せーッ」と言う下士官の声は絶叫に近く、片平は急いでギアを入れ、ライトを消したままゆっくり走っていたが、通り慣れた広い道路に出て砂糖運搬用の軽便鉄道のレールを乗り越えるときにはアクセルを全開にした。レールは土盛りされて小高く、トラックは大きくバウンドして荷台の下士官達は放り上げられて大きな声を上げ、したたかに叩き付けられたようだ。これが一兵卒にできる最大の仕返しであった。
七月二十九日早朝、五十六警はカロリナス高地に集結した。五十六警にはトラックと乗用車を合わせて十数台在ったが、この時点では片平のトラック一台を残すのみであった。片平は助手席に大家大佐、荷台に運転助手と通信士、通信機を乗せて集合地であるカロリナス台上への登り口に向かっていた。そこで車を捨て、大佐と通信士は徒歩で台上を目指し、片平と助手の渡辺は大佐の命でカッチ工場に待機しているという斥候と合流するため、徒歩で向かった。しかし、夜のこと故、方角を誤って目的地には着けず、仕方無く一旦トラックの所に戻って出直すことにした。
渡辺は運転席に寝ころび、ハンドルに足を掛けて悠然としていた。「お前、そんな所じゃ危ないぞ。」片平の忠告にも耳を貸さず、「死ぬ時は死ぬんです。」と悟ったような様子だった。
翌朝、いきなり米軍機が襲ってきた。爆音と機銃の音に驚いて跳ね起きるとトラックからはプスプスと煙が上がり、ドアが半開きになっていた。渡辺は、と見ると右の太股に機銃弾を受けたらしく、白目を出して唸っていた。急いでトラックから引きずり出して米軍機の去るのを待った。
辺りが静かになるのを待って様子を伺うと、一人の老婆が子供の手を引いて近付いて来た。近くの壕に潜んでいたものらしい。「婆さん、こんな所に居ちゃダメだ。」片平が声を掛けると、「みんな行っちまったんだ。」と哀れな声を出したが、渡辺の有り様を見ると顔を曇らせた。片平はカッチ工場に行かなければならない。手榴弾一個を渡辺に渡して出発した。
カッチ工場に着くと、そこに居た上等兵と敵戦車の状況を探るよう命令された。カッチ工場には芳賀隊の運輸、工作隊も居たらしい。二人はテニアン港方面に向かった。しばらく索敵したが敵戦車の姿は見えなかった。連れの上等兵は、「俺は状況報告に帰るが、貴様はもう暫く斥候を続けろ。」と言い残して去ってしまった。
潅木が途切れると目の前に海原が広がり、テニアン港近くには米軍の大型船舶が多数停泊しているのが見えた。思わず片平は身を伏せた。この距離では発見される気遣いはなかったが、海面を覆わんばかりの米軍の偉容は片平を畏怖させるに十分だった。
暫くすると鳥の鳴き交わすような、ヒュンヒュンと言う音が聞こえた。弾丸が空気を切り裂く音だ。微かにエンジン音も聞こえる。そちらを見ると二キロほど先に数輛の敵戦車がカロリナス台上に向かっているのが見えた。片平は引き返すことにした。時折は地面に這いつくばるようにして敵の目をかすめながら戻った。
カッチ工場に戻ってみると、只一人、連絡員が居るだけで、他の二十名ほどは司令部を追ってカロリナスに向かったらしいとの事だった。片平はまたもや置いてけ堀を喰わされたか、と複雑な心境だった。もう数名ここに来る予定だとの連絡員の言葉に、暫く待つことにした。夕刻まで待ったが、一人として戻る者が無く、片平は一人で司令部に向かった。しかし時既に遅く、辺りは米軍の戦車と歩兵に埋め尽くされ、突破するのは不可能であった。仕方無く片平は渡辺の待つトラックの所に戻ることにした。
戻ってみると渡辺は既に死んでいた。手榴弾を腹に抱いて自決したらしく、内臓が抉れて飛び出していた。老婆と子供はどうしたかと辺りを見ると、入口が火炎放射機で黒く焼け爛れた壕があった。覗いてみると、そこには孫に覆いかぶさるようにして赤黒く焼け爛れた姿があった。
五十六警は持久戦を想定して、数カ所の洞窟に食料を貯蔵していた。運転員であった片平はそれらの洞窟のありかを知っていた。それが彼の命を救うことになり、数少ない生還者の一人となる事が出来た。
沼田砲台に取り残された兵達のその後を知る者は無く、置き去りにした下士官達もあるものは戦死し、あるものは自決して果て、生還できた者は数えるほどであった。
米軍発表(テニアン島に於ける米軍の損害)
○テニアン港にて米駆逐艦ノルマン、スコット轟沈。死傷者多数。
○テニアン港にて米巡洋艦コロラドに日本軍海岸砲との撃ち合いにて二十二発命中。火災を起こし米側の大佐戦死。負傷者も多数。
○テニアン西海岸ウネハーブィ上陸時、十五名戦死。二百十五名負傷。
○テニアン地上戦に於ける米海兵隊の戦死者、カロリナス台上にて米第六海兵連隊イズレイ大佐外数名。負傷者多数。
○米空軍グラマン十六機から十七機撃墜さる。搭乗員戦死。
相良智英さんのこと
野田利勝
相良さんの体験は私のような戦後もしばらくして生まれた者にとっては真に理解することなど、とうていかなわないまさにひどい残酷なものです。
しかもその体験は相良さんが自ら望んだものではなく、国家の誘導と強制によるものであることは疑いありません。
若き相良さんがボロ切れのようになった陸戦服でテニアンに身を潜め、友の死を看取り、食料を求めてさまようときに彼をこの地に追いやった者たちはこのことに目を向けたでしょうか。
玉砕の島のありさまは既にガダルカナルで体験済みであるはずなのに手を打つどころか事実をひたすらに隠し自らの立場の温存にばかり終始し、勝つための努力さえ放棄していたと言って誤りではありますまい。
相良さんのテニアンでの足跡を我が子の味わったものとして読み直せば非常に良く理解できるのです。どの親が自分の子をこのような状況の場所に行くことを望み、誰がこのようなことを予定して子をこの世に登場させるでしょうか。
万に及ぶ若者と民間人の悲劇が繰り広げられたテニアンは日本の歴史の小さな一ページとしてほとんど忘れ去られ、訪れる者と言えば相良さんのような数少ない生存者と遺族が、細々と慰霊の香をたむけているに過ぎないけれども、テニアン島南端の断崖にはいつでもゴウゴウたる風が吹き荒れて死者のなげきのように聞こえます。
玉砕の後も生きながらえた相良さんは亡くなった戦友を壕の奥に横たえ、カタツムリやイモなどの貧しい食料さえまず戦友の遺骸にささげ祈りの後に食しました。
亡くした子の年を数えるようにして相良さんは毎年テニアン慰霊を続けているのです。
私ははじめてこのような方とお会いしました。そして良き日本人を見たような気がしております。
補償とか国家の姿勢などということに頓着なく、只々、亡き友と先輩に対する哀悼をささげるに一生懸命な相良さんと戦友、そして日本人に困難を強いた時代というものへの怒りは収まりませんが、最後は相良さんと同様に涙を流してテニアンを想う夜は更けてゆきました。
それにしても相良さんは、玉砕の日にカロリナス台上において小川隊の戦友と友に死ぬことが叶わなかったという、いわば悔いのようなわだかまりが今なお消えずに自分を「死にぞこない。」と何度も何度も語り、この文集の中にも「明日死のう、明日死のうと思って死ぬことができなかった。」と素直に書きしるしておられます。しかし、そのような生真面目な相良氏の戦後は、なかなかに辛かったもののようです。
玉砕の島から命からがら帰ってきた人間に対する世間の視線は冷たく、なにかずるいことをして生きながらえたのではないか、という直接あるいは無言の追求が相良さんを責め、相良さんが「自分はテニアン島の死にぞこないです。」と明言するに到ったのは戦後に生まれた息子さん達が成人し大学を終え、戦後も三十年以上すぎた昭和五十一年のことです。
ふるさとを捨て偽名を使って戦後を暮らした帰還兵もおります。その方とお会いしたときの私の衝撃は大きいものでした。
相良さんと日本人を困難におとしめた責任は当時の軍部と政府の責任であったかもしれません。しかしながら戦後もなお相良さん達を苦しめたのは他ならぬ国民自身、我々と同じ庶民だったということに私は愕然として、戦争への反省は政府や他人ごとではなく私たち自身のものであることを痛感するものです。
ジャングルの廃屋のかたに捨てられしウィスキィの壜の寿の文字
テニアンの砂に埋もれし長男の消息を聞く九十の翁
婦女子等の身を投げ逝きし断崖に風吹き荒れてあやうくたたずむ
ひたむきに記憶をつづる相良氏の文字の乱れし玉砕の章